「わあ、すごい!!」心の中で叫んだ
初めてこの絵本を手にした時、こんなにきれいな絵本があるのだと、驚いた。
きらきらうろこをなんとホログラムで表現しているのだ。
私は、まるで魔法を見たように、絵本のいろんなページを何度も蛍光灯の光に当てながら、 ホログラムのそれぞれの輝きの変化を見入っていた。
もちろん、子どもに大人気の絵本である。
「ぼくはこんなにきれいなのに、だれにもほめてもらえなければ何の意味があるのだろう」
自分が一番だと自らの美しさを誇り、それを分かち合うことを知らないにじいろのさかなは、 だんだん寂しくなっていく。
しかし、そのにじうおにもちゃんと相談にのり、アドバイスをする仲間がいたのだ。
その仲間の声を聞き、いやいやながらもきらきらうろこを分けてあげる。
すると、あおいさかなはよろこんだ。とてもとても喜んだ。 その喜ぶ姿に、にじうおは今まで感じたことのない境地を体験する。
それは、自分が一番と思い込んでいた時にはとうてい味わうことのなかった感覚であった。
その感覚に突き動かされるように、うろこを最後の一枚まで分けていく。どんどんうれしくなっていく。
そして、仲間と一緒にいるのがますます楽しくなっていく。
この変化は、聞き手の子どもだけでなく、読み手の大人も大きく心揺さぶられる。
仏教の実践に「布施」という言葉がある。
「布施」と聞くと、一般の方は、お寺さんに渡すお金のことをすぐに思い浮かべるだろう。
元々はインドの言葉でダーナといい、「執着を離れ、人に物や心を施すこと」を指す、 仏教の実践の一つであった。
作者が布施という言葉そのものを知っていたかどうかは、知らない。
しかし、洋の東西を問わず 「人は、ひとりでは生きていけない(だから互いに助け合うのだよ)」という
いのちの事実をしっかり受け止めていたのだろうことは想像できる。
不安や・心配が多くなっているこの時代だからこそ、自分が守るべきものが増えていき、 ますます自分中心の営みに傾いていく。
まさに我執・執着が深くなっていくのだ。しかし、この絵本からくみ取れるように、
「自分しか見えなくなると、人間は、生きていく意味さえも見失ってしまう。」空しい人生を歩むことになってしまうのである。
貧しい時代を生き抜いたある一人のおばあさんは、「わしがわしがの我を捨てて、おかげおかげのげで過ごせ」と、
まだ三次に来て間もない頃の私に、何度も教えてくれた。若い頃からよくお寺でのお説法を聞いてきたおばあさんだった。
この絵本を読むとき、なぜかしら、そのおばあさんの声と顔が浮かんでくる。
「玄猷さん、しっかり法施をしなさい(=仏法を伝えなさい)!」という励ましが。
(記:源光寺住職 福間玄猷)
今日の絵本:
にじいろのさかな:マーカス・フィスター/作 谷川俊太郎/訳