お寺の私たちは、土曜日・日曜日には、なかなか私用は入れられない。
通常の月忌参りに加えて、家族・親戚の予定を考慮したご門徒さんからの、法事の依頼が集中するからだ。
そんな私たちがとある日曜日、夫婦そろって広島市内に出かけることができた。数ヶ月ぶりのことだった。
少しうきうきしながら、ランチを一緒に食べ、坊守(=妻)は手芸屋さん、
そして私はめったに行けない本屋さんに足を伸ばす。
まず、子どもの絵本のコーナーに向かう。一番目につくところに平積みされていたのが『地獄』、
その隣にあったのが今日紹介する『絵本 極楽』だった。
皆さんは、極楽と聞いて何を連想するだろうか。
極楽を死後の世界と受けとめ、亡き人が行くところ、現代の私たちには関係ない、と
考えている人が多いのではないだろうか。
だから、地獄や極楽を説いてきた仏教も、誰かが亡くなって、
故人の供養のためにお世話になるものだ(=葬式仏教)ととらえている人が多いように思われる。
しかし、2500年を超える仏教の歴史を丁寧にひもといてみると、
仏教は単なる先祖の供養にとどまるものではなく、今を生きる私にとってなくてはならないものだということがわかる。
「仏法は鏡である」との言葉からもわかるように、
「仏法は、我が心・生きざまを映す鏡である」と教えられる。
鏡というとまず思い浮かぶのは、皆さんの家の洗面台にあり、一日に何度も見るあれである。
いくら自分の顔や姿といっても鏡に写すことがなければ、私たちは、自分の顔や姿を確認することすら出来ないはずである。
仏法という鏡に照らすとき、この私の偽らざる心や生きざまが初めて明らかになるのだ。
①自分中心で生きているという私の姿
②その私に働きかけ、導き続けている仏の姿
この絵本では、京都・法然院さまそして、愛知・貞照院さま所蔵の
美しい曼荼羅を通して美しい極楽の様子や阿弥陀仏の姿を紹介しながら、
その阿弥陀仏が、この私に声をかけてくる。
「わたしが
きみをまもっているから、
なにがあってもだいじょうぶだ。
どんなふうでもいいから
どこまでも生きていくんだよ」
世間の区別・分別・優劣・そして差別に苦悩する私たちにとって、
この出世間からの阿弥陀仏の呼びかけはどれほど心強いことか。
私自身大きな声で朗読しながら、これを阿弥陀仏からの呼びかけと聞かせてもらう。
ふつふつと感動がわきあがり、時には、涙さえもこぼれてくる。
「ああ、私は、生きていていいのだ」
と
そして、それは単なる夢の世界で終わらず、
「仏さまはここ(世間)にもいるのだ。
そして、どんな時も仏さまの応援を受けながら、私は生きていけるのだ」
と思い起こすことができる。
あらためて、一人ではないことを気づかされた。
そして、元気が出た。
(記:源光寺住職 福間玄猷)
今日の絵本:
絵本『極楽』 西川 隆範/文 桝田 英伸/監修 風濤社
http://futohsha.co.jp/books/jigoku/gokuraku.html