森で一番背の高いくけやきの木が、倒れてしまった。
くぬぎなどまわりの木たちも、ショックを受ける。
けやきのショックは、計り知れない。
けやきは自暴自棄になり、まわりのものをうらやむようになる。
でも、森の仲間達は倒れたけやきの周りに集い、けやきに語りかける
森の木の実が、そして枯れ葉が毛布のように、けやきに降り注ぐ。
けやきが倒れたことで、お日さまの光がよく届くようになり、
まわりの木がどんどん成長する。
わかいぶなの木をうらやんでいたけやきだが、
倒れたことの意味や、倒れても自分は多くのいのちの中にあることに気づけた時、
次を生きる若いぶなの木を、誇り高く眺めることが出来るようになる。
そして、ついに
けやきの姿・形がなくなっても、その養分を吸収した土から
また、次のいのちが芽吹いてきた。
源光寺で勤めたご門徒さんの1周忌の法事で、
ご法話の導入として読ませていただいた。
これまでにも7年以上にわたって読んできた絵本だが、
普段は絵本そのままを使った読み聞かせのため、
大人数の前ではどうしても見えにくさがネックになる。
今回は、子どもも含めると24人も参られたので、ここで一工夫。
絵本を大型スクリーンに投影しての読み聞かせに挑戦。
自ずと大人の方にも目に触れていただくことができた。
「まさに自分の行く先を教えているようです」(60代男性)
「年を重ねた時、後進に道を譲ることの大切さを教えてくれました」(30代男性)
「絵本だと言葉がすっと入ってきますね」(50代女性)・・・。
このような感想をいただいた。
絵本の読み聞かせの後には、こんなご法話。
仏教は葬式・法事の単なる道具ではありません。
仏教は「転ずる=気づき・目覚め」ということを大切にしてきました。
そしてご法事は、
思い出話をしておしまい。
お経を読んでおしまい。
お坊さんのお話を聞いておしまい。
お食事をしておしまい。
ではありません。
お寺の本堂(当家のお仏壇も同じ)に足を運び
ご本尊である阿弥陀如来の前に座り、
思い出話をして、
お経を読んで、
お坊さんからご法話を聞いて、
その中で、
自分が何を感じ、
何を思いだし、
何に気づき・目覚めていくのか。
そのささやかな気づき・目覚めが
日常生活の思考や行動に、わずかずつでも変化を与えていくのです。
単に故人のための行事にとどまらず、
この私の気づきや目覚めを促す宗教体験の場なのです。
ですから、若い頃のけやきのようにいつまでも
「わしは そらの高いところを見るのが一番素晴らしいことだと思っていた」
と、とどまっていては人生としては薄っぺらいものに終わってしまいます。
「わしがたっていたこの土のうえも、こんなに素晴らしいところだったというのに」
という気づき・目覚めこそが大切なのです。
それまで避けてきた老・病・死にぶつかり、
それにも様々な意味があったのだと気づかされることが人間の成長であり、
その気づき・目覚めを促す宗教体験の場が、本来のご法事なのです。
と締めくくった。
(記:源光寺住職 福間玄猷)
今日の絵本:
『おおきな けやき』林 木林/作 広野多珂子/絵 すずき出版
http://www.suzuki-syuppan.co.jp/script/detail.php?id=1040012937