考えることの再発見 安野光雅の『シンデレラ』

2018年10月6日

 地元・三次市の奥田元宋・小由女美術館で開催されている
「安野光雅展-花と歌、文学の絵本から-」(最終日:10/8)に足を運んだ。
島根県・津和野町出身の安野さん。草花や歴史文学、世界各地の風景を題材にしたもののほか、
三次で描いた絵も2点ほど飾ってあった。
販売コーナーには、オリジナルグッズのほかに様々な絵本も紹介してあり、
子どもの頃に見ていた『歌の絵本』が安野さんの絵だと気づいて感動したし、
大きくなってめくった『もりのえほん』などもあり、その表現方法の豊かさにびっくりした。
現在92才になられる安野さんの近著に『かんがえる子ども』があり、帰宅後直ちに読み切った。
「最近は、天気予報の時間に着る物や持ち物のアドバイスまで耳にされるが、
テレビを見ても、本来は自分で考えるという姿勢が大切」
「実際に触れて知る、というのは、映像などで見て知っている、というのとは違うと思います」
など、大人の私にとっても、耳の痛い言葉が並んでいた。
 
 次の日、小学校2年生の読み語りには、今日の絵本『シンデレラ』を持っていった。
安野さんの展覧会のこともあわせて紹介しながら尋ねてみると、
そのクラスでは、1/3の児童が『シンデレラ』を知らないと手を上げた。
「これほどの世界的名作が知られていないとは!」と大変驚いた。
 
 「絵本は読みっぱなし」と聞いてきた。
それはなぜだろうか。
まさに安野さんのおっしゃるとおり、「本来は自分で考える」ということではなかったか。
聞いた一人一人が
その物語にひたり、空想を膨らませ、あこがれる中で、
絵本が「自分で考える時間や場所を提供している」のだと思う。
すぐに答えを与えたり、要求しないということなのだろう。

 現代社会は、特に変化が激しく価値観も様々であるから、
「その中で生き残っていくためには」と、親は必死になって我が子を教育する。
先生方も、社会の要請に応えるべく多くのことを短時間で教え込まねばならない。
親も先生も、
「すぐわかり・すぐに身につき・すぐに結果が出る」ことを、教えなければならないのだ。
反対に、子どもたちそれぞれのスピードで考える時間はどんどんと少なくなり、
自発的に学ぶ場所はどんどん少なくなるのである。
でも、どうだろう。人生とはそんな単純なものだろうか。

「ぼくはどこから来たのだろう」
「どこに向かって歩いているのだろう」
「なぜ死ななければならないのだろう」
「死んだらどうなるのだろう」
「そもそもなぜ生まれてきたのだろう」
「では、どのように生きることが出来るのだろう」
これらの問いは、「すぐわかり・すぐに身につき・すぐに結果が出る」ものではない。
なかなか答えが出ないけれど、
これらを問いながら生きるということが人間の深みになるのではないか。

 たった1冊の『シンデレラ』であっても、心に残るところは一人一人違うし、
初めて聞いた時と自分で読む時の感触は違うし、大人になってもう一度読んだ時の感想は、
おそらく深さが違っている。
その変化や深まりが、実は、悲喜交々の人生にも様々な気づきを与えていくと考えている。
たとえ短くても、子どもの「考える時間」の提供に心を配っていきたい。
(記:源光寺住職 福間玄猷)

今日の絵本:シンデレラ
安野光雅/文・絵 世界文化社 
http://www.sekaibunka.com/book/exec/cs/11810.html

投稿者について

福間 玄猷

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん」 大阪府茨木市出身。平成8年三次市・源光寺へ入寺。《様々な経験を持った人々が集い、信頼できる温かなつながりを育む》そのような交流館を目指して、赤ちゃんからご年配の方まで世代を超えた活動を続けている。寺院や福祉施設はもちろん、各地の学校や保育所、コミュニティーセンター・いきいきサロンなどに招かれ、「いのち・こころ・真実を見つめる」ご法話や講演を重ねている。また、「子育て支援」「アドバンスケア・プランニング」「グリーフケア」を柱にした研修会も好評。子どもたちと富士山登山を3度完遂。グリーフケアアドバイザー1級/発達障害コミュニケーション初級指導者/つどい・さんあい 運営委員

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