蓮の花を通して ご先祖を偲び、阿弥陀仏の働きを思う

2022年8月12日


今日は、お盆参りのお宅で、蓮の花を見せていただきました。花の色や形だけでなく、その香りもなんとも表現できない素晴らしいものでした。あなたも、あの香りをご存じでしょうか?

『仏説阿弥陀経』の一節には、次のように説かれてあり、ご存じの方も多いようです。
池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃっこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃっこう)ありて、微妙(みみょう)香潔(こうけつ)なり。
【現代訳】また池の中には車輪のように大きな蓮の花が咲いていて、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかです。

蓮は水生の植物で、泥水の沼や池の中から真っ直ぐ茎を伸ばし、その先に綺麗な花を咲かせます。
泥は、私たちの煩悩をあらわしています。蓮の花は、仏教でいう悟りをあらわしています。悟りとは、「物事をありのままに見ることができる、美しい清らかな心」といわれています。阿弥陀仏の智慧の光をいただくもの(=念仏者)は、抱える煩悩が大切な機縁となって、悟りの存在とならせていただくことがかなうと示されています。それは、煩悩が浄土往生の障げではなくなった、大転換を意味します。

また、蓮は花が咲き終わった時、同時に実がなっています。蓮の花は、朝早く咲いて午後には閉じるようです。およそ3日間繰り返して花びらが散ります。ミカンやイチゴなどは、花が終わってもすぐには実がつきません。即座に実が出来ているのは、蓮だけと聞いたことがあります。この姿から、私の人間境界のいのちが終わった時、直ちに浄土往生が整い仏(=悟りの存在)に成らせて頂くことを示しているとお聞きしています。

さらに、お釈迦さまは『観無量寿経』の終わりに
「もし念仏するものがあれば、それは人間の中でも分陀利華(ふんだりけ)である」
とお説きくださっています。分陀利華とは白蓮華(びゃくれんげ)のことです。念仏者を「蓮華」と褒め称えてくださっているのです。なんとも、もったいないことですね。仏教と蓮の幅広い受けとめをご紹介しました。

今日も、びおらの丘や宝池墓苑では、お盆の参りの方々がたくさんおられて、とても賑やかでした。

(後半は源光寺の睡蓮です)

投稿者について

福間 玄猷

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん」 大阪府茨木市出身。平成8年三次市・源光寺へ入寺。《様々な経験を持った人々が集い、信頼できる温かなつながりを育む》そのような交流館を目指して、赤ちゃんからご年配の方まで世代を超えた活動を続けている。寺院や福祉施設はもちろん、各地の学校や保育所、コミュニティーセンター・いきいきサロンなどに招かれ、「いのち・こころ・真実を見つめる」ご法話や講演を重ねている。また、「子育て支援」「アドバンスケア・プランニング」「グリーフケア」を柱にした研修会も好評。子どもたちと富士山登山を3度完遂。グリーフケアアドバイザー1級/発達障害コミュニケーション初級指導者/つどい・さんあい 運営委員

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