かつて、私が大谷大学に入学し仏教学を学びはじめた時のことです。仏教の旗印として「三法印」「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」という言葉に初めて出遇いました。(いいえ、よくよく振り返ると、「諸行無常」という言葉は、中学生の頃に知ってはいました。国語の教科書に載っており、授業で暗唱をさせられた『平家物語』の冒頭の言葉だったからです。しかし、中学生当時は、「諸行無常」という言葉が仏教に由来するものとは知りませんでした)
在学中、漢字ばかりの専門用語をシャワーのように浴びた私は、「仏教とは、難しいものだ!」という思い込みを抱えることになりました。その思い込みは、相当長い間私を縛り付けました。
今頃、振り返るようになりました。
仏教は、本来、難しい言葉の世界ではなかった。
私たちが「つい見過ごしてしまう日常のありさま」を適確に気づかせようとしたものだった。
そして、「ついごまかしたくなる自分の姿」を適確に気づかせようとしたものだった。
さらに、「本当はどのようにあることが望ましいのか」を示そうとしたものだったということに。
つまり、言葉よりも先に、そのような世間があり、そのような私があり、そのような経験があるということです。言葉のみにこだわって、その前提となっていた世間や私や経験に目を向けることがなければ、それは、言葉を本当に学んだことにはならないのです。
今頃になって、一つひとつの仏教語から世間や私や経験を「覩る」ことが出来るようになってきました。それらの発見は、ちょっと面白いものですよ。
昨日は、84才で亡くなられたご門徒さんのお通夜を終えて、文房具を買いにホームセンターに立ち寄りました。車を降りた時、暮れゆく空に心が留まり、周囲を撮影してみました。このわずかな時間でも、徐々に色合いが変化していくさまを実感しました。「今日の夕方の空はきれいでした」という一言では到底語り尽くせない、変化を感じることが出来ました。夕方の空がきれいだったから目に留まったのか、ご門徒さんのお通夜を済ませて帰るタイミングだったから心が留まったのか、わからない(無意識の)部分も含めて、あらゆる「諸行無常」のただ中にある私(私の体内も諸行無常だったな!!)でした。
あなたは、今日どんな「諸行無常」を発見しましたか?