生身の僧侶が必要とされる!? AI興隆の時代に

2024年12月9日

今日は、平日にも関わらず多くのご親戚(5が月の赤ちゃん~80代の方まで)が集まった満中陰のご法事を勤めさせていただいた。ご法事では、読経の後、必ずご法話をさせていただく。故人を偲ぶことに加えて、浄土真宗の教えの一端を紹介させていただくことにしている。50代の私がご紹介できる内容は、インターネットを検索すればすぐに閲覧することが出来る。つまり、「浄土真宗の教義」という情報を得るだけなら、もはや生身の僧侶の存在意義は薄れているのではないだろうか?
これからは、生成AIがあらゆる仕事を担うようになると言われている中で「生身の僧侶が必要とされる訳は、どこにあるのだろう?」これが、ここ数年の私の大きな問いである。

そんな折り、絵本仲間の一人からこんなつぶやきを聞いた。
「絵本は自分で読むのと誰かに読んでもらうのとでは、雲泥の差なんですよ。だから、子どもだけでなく、大人にとっても絵本を読んでもらうことは素敵なことなんです。」

このつぶやきは、自分にも思い当たる点が多かった。私も日常では、子どもたちへの読み聞かせボランティアや大人の方とのワークショップなどで、絵本を誰かのために読む時間が圧倒的に多い。その私が、去る9月に井上みほ子さんのトークショーに参加した。井上さんが、目の前のスクリーンに絵本を写しながら読んでくださった時、思いっきり感情が揺さぶられ涙がこぼれた。これまで読んだことがある絵本であっても、自分で読むのと読んでもらうのとでは大きな違いがあることを実感した。自分一人で読む場合は字面だけを追ってわかったつもりになっているし、誰かに読む時は次の展開を思い出しながらなので、「いまここ」に没入することは出来にくい。「自分と温かな関係性が出来たこの人が、私のために読んでくれている」という唯一無二の空間と時間が下地となって、過去への振り返りや今後の展望を想像できる心豊かなひとときとなり、感情が揺さぶられたのだろう。

あなたは、「生身の僧侶が必要とされる訳」をどう考えるだろうか?
私自身は、仏道を歩む僧侶とご門徒の皆さんが(仏さまから共に見護られてある)温かな関係性が整っていることと、気づかされた。

これは、20年以上続けてきた絵本の読み聞かせ活動からの、大発見である。

投稿者について

福間 玄猷

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん」 大阪府茨木市出身。平成8年三次市・源光寺へ入寺。《様々な経験を持った人々が集い、信頼できる温かなつながりを育む》そのような交流館を目指して、赤ちゃんからご年配の方まで世代を超えた活動を続けている。寺院や福祉施設はもちろん、各地の学校や保育所、コミュニティーセンター・いきいきサロンなどに招かれ、「いのち・こころ・真実を見つめる」ご法話や講演を重ねている。また、「子育て支援」「アドバンスケア・プランニング」「グリーフケア」を柱にした研修会も好評。子どもたちと富士山登山を3度完遂。グリーフケアアドバイザー1級/発達障害コミュニケーション初級指導者/つどい・さんあい 運営委員

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