「当たり前」が崩壊した時に、ようやく実感する「有り難い」

2025年6月30日


ここ数日の暑さで、仏前にお供えしているお花も傷みが早くなります。毎月開催の子ども会の前にお花を生け替えるため、花屋さんに行きました。

冷房が効いた店内には、色とりどり様々な種類のお花が並んでいます。「ああ、涼しい!」「きれいだなあ」と、思わずつぶやきがこぼれます。そして、ふと気がついたことがあります。
花屋さんですから、いつでもきれいなお花を買うことが出来ます。でも、これはお金があるからではありません。お花を育て、届けてくださる多くの方々がおられるからなのです。生産してくださる方がいなければ、どんなにお金があっても私はお花を買うことは出来なくなります。現に、昨今の高温や物価高騰、後継者不足などで花の栽培を辞めてしまう方々が増えているようです。

お花だけでなく、お米についても同じことがいえますね。私たち日本人にとっての主食ですから、まさに当たり前に食べていましたが、今回、お米不足が話題になったことで、天候の影響と生産者の方の苦労、流通の複雑な仕組みがようやく明るみに出ることになりましたね。

私たち人間は、暑ければエアコンをつけ、寒ければ暖房をつけたりして、ある程度自然の影響から身を守ることが出来ます。しかし、自然の中で生育する動植物や、それに従事してくださる生産者の方々は高温などの天候の影響を直に受けてしまいます。ですから、その影響を最小限に抑えながら栽培を続けて行くには、消費者である私たちには見えない様々な苦労があるはずです。

振り返ると、「当たり前」に見てしまうことはとても恐ろしいことですね。もっとはっきり言うと、それは「見えない」のと同じですね。「当たり前」の反対は「有り難い」という話は、多くの方が聞いたことがあると思います。でも、これは単なる言葉の違いにとどまらないのです。「当たり前」とは、日頃、考えることも話題にすることも問いを持つこともないということです。例えば、毎朝顔を洗う時、「この水はどこから来ているのだろう?」と考えないのと同じです。その水が、災害や事故で断水した時に、「水が出なくて不便だ」という体験を通して、「水が出るのは有り難いことだったのだ」と気づくことになる私たち。滞りなく日常が進んでいる時には、本当の有り難さは気づかないということです。

だからこそ、思いがけない出来事を災いと捉えて排除するのではなく、その出来事からも「有り難いことだった」と気づかせてもらえることを大切にしたいと思いました。さらに、見えない「当たり前」を観ようとする意識や問いを持つことを大切にしたいと思いました。

あなたが、最近、「これは当たり前ではなかったな」と感じた出来事がありましたか?

投稿者について

福間 玄猷

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん」 大阪府茨木市出身。平成8年三次市・源光寺へ入寺。《様々な経験を持った人々が集い、信頼できる温かなつながりを育む》そのような交流館を目指して、赤ちゃんからご年配の方まで世代を超えた活動を続けている。寺院や福祉施設はもちろん、各地の学校や保育所、コミュニティーセンター・いきいきサロンなどに招かれ、「いのち・こころ・真実を見つめる」ご法話や講演を重ねている。また、「子育て支援」「アドバンスケア・プランニング」「グリーフケア」を柱にした研修会も好評。子どもたちと富士山登山を3度完遂。グリーフケアアドバイザー1級/発達障害コミュニケーション初級指導者/つどい・さんあい 運営委員

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