
私の地域では、お盆の風物詩としての盆灯籠があります。お仏壇の前に置くもの以外に、お墓に供える盆灯籠です。竹と和紙を用いて大変手間のかかる工程で作られます。8月に入ると、その灯籠が地域のコンビニやスーパー、ホームセンターなどに並び、県外から来た人の目を驚かせます。初盆のお宅には白い灯籠を、それ以降のお宅では鮮やかな色紙を貼った灯籠を、当家に縁のある方々が持ってお墓に参り、供える風習です。聞けば、広島県内の一部に見られるもので、関西から来た私は、お盆期間中の夜、盆灯籠のろうそくの火が揺らぐ幻想的な風景にとても感動したことを覚えています。
最近は、墓地の区画が狭くなってきたことや、墓地に立てる時の手間、お盆後のゴミの問題などで、この灯籠を禁止する墓地も増えてきたと聞きます。あの時に味わった感動の風景がこれからは見られなくなっていくのかと思うと、少しさみしい気持ちもします。
浄土真宗の教えと灯籠の整合性は、実は曖昧です。浄土真宗では、「生前仏縁をいただいたご先祖は、阿弥陀如来の本願力によって仏さまとなり、いつも私を導いていてくださる」と教えを受けます。一般の方のように「お盆になると、灯籠をめがけてご先祖が帰ってくる」という捉え方はしません。ですから、厳密に言うと,「先祖が帰る目印としての灯籠」は浄土真宗において必要ありません。
ただ、私たちの人生は、「一見関係ないと思っていたことが、大切なきっかけとなっていた」と、後から振り返ることが多いのではないでしょうか。だから、私は、盆灯籠にかかわる一つ一つの体験・経験も大切にしたいのです。確かに、曖昧な部分をそぎ落とし純粋な部分だけを大切にする考え方もあります。が私は、人間そのものが曖昧な存在であるし、曖昧である部分も含めてすべての経験・体験が意味を持っていると考えたいのです。その曖昧な部分を手がかりにして、人との会話や共同作業や追憶が重ねられ、その過程の中で、それぞれが本当に大切にしたい「真髄」に触れる関わりをしていきたいのです。
さあ、まもなくお彼岸の月になりますね。お彼岸と聞いて、あなたはどんな体験や風景を思い出しますか?