葉っぱのフレディ いのちの旅

2018年2月1日

*中学生へのご法話に はじめて絵本の読み聞かせ

今から20年近く前のこと。私が広島県三次市のお寺に入寺して、まだ3年も満たない冬のある日。長い間、脳梗塞で療養をされていたおじいさんが亡くなられた。

通夜・葬儀が終わり、孫にあたる中学生がおじいさんの七日参りに毎週通ってくれる。その中学生は同居ではなく、ちょうどスープの冷めない距離にある自宅から自転車をこいで駆けつけてくれている。満中陰まで5回ほどあるお参りで、一緒にお経を唱え、ご法話も。難しい専門用語を使うことは出来ないし、世間話でお茶を濁すことも出来ない。中学生が気に入るようなスポーツやゲームの話も、私は出来ない。多感で思春期真っ最中の中学生に、どんなご法話ができるだろうか。当時の私にとって、最大の課題だった。

そんなある日、福山での研修会に向かう道中、本屋さんにふと立ち寄った。入り口から近いところに、その本が平積みされていた。『葉っぱのフレディ』というタイトル。手にとってぱらぱらとめくり、その中の言葉にびっくりした。

引っこしをするとか ここからいなくなるとかきみは言ってたけれどそれは---」
とフレディは胸がいっぱいになりました。
「死ぬ ということでしょ?」
ダニエルは口をかたくむすんでいます。
「ぼく 死ぬのがこわいよ。」とフレディが言いました。
「そのとおりだね。」とダニエルが答えました。
「まだ経験したことがないことは こわいと思うものだ。
でも考えてごらん。世界は変化をし続けているんだ。 変化しないものは ひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。
変化するって自然なことなんだ。
きみは 春が夏になるとき こわかったかい?
緑から紅葉するとき こわくなかったろう?
ぼくたちも変化しつづけているんだ。 死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。」

こんなにストレートに「死」を言葉にしている絵本は、初めてだった。びっくりした。木の一生に、人間の生涯を重ね合わせてある。そして、木のいのちが終わっても、また次のいのちが芽吹いてくるという、いのちのつながりをしっかりと伝えている。

死=敗北 そして不幸な出来事だととらえられていた当時の風潮に、大きな示唆と明るさを与える内容だった。
「すごい!こんな絵本が出たのだ」と驚きを持ちながらも、一旦お店を出た。しかし、車に乗ろうとした私の脳裏に、彼の顔が浮かんだ。「そうだ、今度の七日参りで読んでみよう!」
中学生の前で初めて読んだ時、私は、言葉に詰まった。胸が震えた。涙がこぼれた。
今でも、その場面を思い出すことが出来る。

この本を落ち着いて読めるようになるまでには、数年かかった。

仏教伝来の歴史は、約2500年。仏教は、この私の生老病死に目を向けさせ、その苦悩を受け止め、分かち合い、乗りこえようとする方向性を示し続けてきた。その教えはお経という形で伝えられてきた。そして、お経を聞き、お経を学び、お経を体感した一人一人が、それぞれの創意工夫でさらに仏教を拡げ深めてきた歴史でもある。今私たちが何気なく見聞きする音楽・文学・芸能・建築などに影響を与え、今私たちの手元に届けられている。そして、絵本の中にも・・・。

「絵本のお坊さん」として、通夜・法事の場で読み語りををしてきた絵本を紹介していきたい。

 

今日の絵本:

葉っぱのフレディ いのちの旅

レオ・バスカーリア/作 みらいなな/訳 童話屋

http://www.direct1.co.jp/naisho/dowa-ya/140304_html/books/ehon/index.html#001

投稿者について

福間 玄猷

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん」 大阪府茨木市出身。平成8年三次市・源光寺へ入寺。《様々な経験を持った人々が集い、信頼できる温かなつながりを育む》そのような交流館を目指して、赤ちゃんからご年配の方まで世代を超えた活動を続けている。寺院や福祉施設はもちろん、各地の学校や保育所、コミュニティーセンター・いきいきサロンなどに招かれ、「いのち・こころ・真実を見つめる」ご法話や講演を重ねている。また、「子育て支援」「アドバンスケア・プランニング」「グリーフケア」を柱にした研修会も好評。子どもたちと富士山登山を3度完遂。グリーフケアアドバイザー1級/発達障害コミュニケーション初級指導者/つどい・さんあい 運営委員

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