「葬儀の時は頼むね!」と言われ素直に喜べない私

2024年5月13日


これまでに、ご門徒さんや同世代の方からこのようなお声かけをいただくことがありました。いざという時に頼りにされていることは、とても有り難いことです。しかし、もろ手を上げて喜ぶには、少し複雑な心持ちです。「葬儀の時は・・・」ということは、「それまでは用事がない」と言われている気がするからです。

「葬式仏教ではいけない!」
と、かつて私たちお寺や僧侶への強い批判が向けられたことがありました。ですから、私自身は、お寺での子ども会活動や仏教入門講座、山歩きの会やトーク&ライブなど、日常生活での「お寺で楽しい思い出づくり」を30年近く模索してきました。けれども、「葬儀の時は・・・」と考えている方々はご門徒さんや地域の方々の中にも多く、日常生活での仏縁には一度も参加されない方がいらっしゃるのです。「葬儀の時は・・・」という先入観が、知らず知らず浸透してしまっているのかもしれません。実際にSNSの投稿でも、各地の神社へ参拝される様子はたくさんあがりますが、お寺に参拝される記事はほどんど見受けられません。

はたして、お寺や僧侶・仏教というものは、お葬儀・ご法事そして先祖供養の道具でしかないのでしょうか?もしそうなら、仏教が2500年以上も受け継がれてきた歴史的事実をどのように受け止めたら良いのでしょうか?仏教が世界の三大宗教に数えられてきたのは、どのような要因があったのでしょうか?

それは、時代や文化・国を超えて、仏教が普遍性を具えていたからだと思うのです。しかも、死者儀礼という狭い範囲にとどまらず、「今」を生きる人たちの苦悩に働きかけ、導きを重ねてきたからだと思うのです。

丁寧にお葬儀やご法事をお勤めすることは、とても大切です。なぜなら、その場の僧侶の振る舞い・関わりがご遺族の大きな支えとなり、安心やその後の希望につながっていくからです。お葬儀後も僧侶の言葉に耳を傾けてみようと、さらなる仏縁につながっていくと思うからです。

そして、お寺・僧侶の側からの情報発信は必要不可欠です。その情報発信は行事案内にとどまらず、「葬儀の時は・・・」という人々の声に耳を傾けた上で、「望ましいありかた」を提示することも含まれると思っています。

さあ、今晩はご門徒さんのお通夜です。(なので、石川への炊き出し支援には参加できなくなりました。すみません。)大切な方との死別が「死んだらおしまい」ではなく、「大切な仏縁を有り難う」とゆくゆく受け止めていただけるよう、精一杯お勤めしてきます。

投稿者について

福間 玄猷

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん」 大阪府茨木市出身。平成8年三次市・源光寺へ入寺。《様々な経験を持った人々が集い、信頼できる温かなつながりを育む》そのような交流館を目指して、赤ちゃんからご年配の方まで世代を超えた活動を続けている。寺院や福祉施設はもちろん、各地の学校や保育所、コミュニティーセンター・いきいきサロンなどに招かれ、「いのち・こころ・真実を見つめる」ご法話や講演を重ねている。また、「子育て支援」「アドバンスケア・プランニング」「グリーフケア」を柱にした研修会も好評。子どもたちと富士山登山を3度完遂。グリーフケアアドバイザー1級/発達障害コミュニケーション初級指導者/つどい・さんあい 運営委員

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