いのちは尊い
とは、日常の様々な場面でよく聞く言葉だ。
誰もが、その言葉を否定はしないだろう。
しかし、日常では「いのちは尊い」という言葉を否定するような出来事があふれている。
もう耳に慣れてしまって、何の気づきや発見も生まれない。
とするならば、
その「いのちは尊い」という言葉は、
もうすでに、言葉本来のはたらきをなくなってしまっているのだろう。
言葉は単なる音ではない。記号でもない。
言葉は、「真実なるもの」を気づかせる働きがある。
そして、言葉には思いがあり、気づきがあり、発見がある。
また悲しみがあり、よろこびがあり、うめきがある。
いのちは、本来はかなく、もろいものであり、
亡くなっていく人だけでなく、遺された人にも、それぞれ固有のドラマがある。
両者の思いや言葉をくみ取りながら、後世の人々は自ら生き、
よりよい地域や社会を作ってきたはずである。
と信じたい。
いのちを実感すること、そして、その実感を分かち合おうとすること。
そこに大切なものがある。と私は考え、実践している。
悲しみを縁とする通夜や法事の場で、この絵本を何度も読んできた。
あなたは、何人のいのちを受け継いでこの世に生まれてきただろうか。
まず思い浮かぶのは、お父さんとお母さん。そしておじいさんとおばあさん。
さらに、ひいおじいさんやひいおばあさん。
でもこのあたりになると、直接の思い出がないので、よくわからなくなる。
人間はわからなくなると、そこで考えることをやめてしまう。
(人間の悪い癖だ)
でも、この絵本はその先を教えている。
「いのちをくれた人をご先祖さまと言うんだよ」
そのご先祖さまの数は、
10代さかのぼると1024人 20代さかのぼると1.048.576人となり、
「数え切れないご先祖さまが誰ひとり欠けても、ぼうやは生まれてこなかった」
「ぼうやのいのちは、ご先祖さまのいのちでもある」
と教えている。
自分の想像をはるか超えたところからいのちが続いてきたという驚きと、
そのいのちがこれからも続いていくのだという不思議さを感じる。
目の前のお友だちを傷つけた時、そのお友だちのご先祖さまは、
お友だちの悲しみを知って、きっと同じように悲しんでいるだろう。
目の前のお友だちと仲良く遊ぶ時、そのお友だちのご先祖さまもきっと喜んでくれている。
そんな風に、お互いのご先祖さまを想像しながら関わってみると、
目の前の人ともおのずと仲良くなれる気がする。
そして、自分も大切に出来る気がする。
数え切れないご先祖に見護られた今日を さあ、歩きだそう。
今日の絵本:
『いのちのまつり 』草場一壽/作 平安座資尚/絵 サンマーク出版
https://www.sunmark.co.jp/detail.php?csid=9611-8