あなたは、「ブッポウソウ」という鳥を知っているだろうか。
そして、本物を見たことがあるだろうか。
環境省のレッドデータブックでは、絶滅危惧種に指定されている鳥だ。
広島や岡山のある地域では、保存活動に取り組んでいるところもあるという。
広島に住んでいる私だが、目が悪いこともあって本物を見たことは、まだない。
とても、きれいな鳴き声をしていて、色も美しい鳥だそうだ。
私は、この絵本に出会うまで、「ブッポウソウ」は
「仏法僧(=ぶっぽうそう)」と鳴いているのだとばかり思っていた。
この絵本がきっかけで、私も改めて調べてみた。
それぞれの鳴き声については、世間でも長年の謎だったようで、
昭和10年にその正体がようやく明らかになったそうである。
「ブッポウソウ」は、本当は「ゲッゲッゲ」と鳴いていて、
「ブッポウソウ」と鳴いている鳥の正体は、「コノハズク」だったとのこと。
何とも不思議な気がしたし、私たちは案外、知ったかぶりで物事をとらえていることが多いと思った。
だから、日頃は何も気にとめていないから、いざ尋ねられると、きちんと答えられないことが多いのだ。
だから、「チコちゃんに怒られるのだ」
でも、この絵本は、単に「ブッポウソウ」の謎解きで終わっているのではない。
見かけは美しいが、鳴き声にコンプレックスを抱えている「ブッポウソウ」が、
自分の存在そのものを受け入れてくれて、鳴き声も魅力的だと認めてくれる「コノハズク」との出会いを描いているのだ。
「そのままで」という言葉以上に、「コノハズク」の存在そのものが、「ブッポウソウ」には衝撃であった。
「コノハズク」の優しいまなざしによって、「ブッポウソウ」の何かが崩壊する。
そして、泣きながら「ブッポウソウ」はしゃべり出す。
その「ブッポウソウ」に対し、「コノハズク」はどっしりした声で語る。「そのままで、いいのだ。」と。
自分の存在そのものを「そのままで、いいのだ。」と認められた「ブッポウソウ」は、変わっていく。
そして、その周りも変わっていく。不思議な展開だ。
私自身も、体のハンディを抱えて歩んできた一人である。
自分を「そのままで」と受け止められず、「もっと00だったらいいのに」と自分を卑下し、
人をうらやみ、変なところで天狗になるといういびつな感覚を持っていた。
ところが47才を数える今ごろ、ようやく「私は、私のままでしかないのだ」
「これまでの歩みそのままが、すべて意味あるものだったのだ」と、気づかされることになった。
その気づきは、何か特別に衝撃的な出来事を通してというのではない。
たとえて言うと、最初は難しくじれったかったジグソーパズルのピースがしだいに合わさり、
いよいよ残りわずかになっていく感覚に似ている。
日常生活のあらゆるもの(もちろん仏法も含まれる)を丁寧に見聞きするようになって、
あれもこれもが同じことを教えているのだと気づきはじめたのである。
そして、同時に肩の力が少しずつ抜けていくような実感もあった。
いい塩梅に力が抜けて、物事をより柔軟に考えられるようになったし、
善悪へのこだわりが少なくなったし、相手に対して、(縁が整うまでの)時間を待てるようになったし、
自分自身にも「まあまあ、がんばってきたな」と声がかけられるようになってきた。
「そのまま」という言葉は、実に奥が深いと思った。
そして、不思議な力があると思った。
そんな深い言葉がやりとりできる関係を、模索していきたいとも思った。
(記:源光寺住職 福間玄猷)
今日の絵本:
青い鳥がなくとき
のりこ(noryco)/著 堅田玄悠/監修 自照社出版