いただいているけど忘れているもの 老人ホーム法話会へ

2023年9月12日

新型コロナが落ち着きましたので、お寺の活動も通常に戻りつつあります。
先日はご依頼を受けて、お寺さまが運営されている老人ホームの法話会にへ寄せていただきました。こちらには数年ぶりのご縁となります。今年の春に前住職様はご往生されましたが、私は白鵠会時代に大変可愛がっていただきました。今は、前坊守さまや現住職ご夫妻が老人ホームやお寺をしっかりと護っていらっしゃいます。

仏間(=ホール)で住職さまのお勤めのあと、30分ほどの時間をいただき「いただいているけれど忘れているもの」という講題でお話をさせていただきました。

私たちは大人になると、いろんなことに慣れていきますね。確かに、毎日が見通しのつかない初体験ばかりだと疲れてしまいます。だから、ある程度日常生活には慣れる必要がありますね。ところが、馴れてくると本当に大切なものを見失って、あたりまえに見過ごしてしまうという危険性も抱えています。だから「慣れても馴れるな」です。

人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身(み)今生(こんじょう)において度せずんば、
さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。
大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し奉(たてまつ)るべし。

これは、三帰依文(またを礼讃文)と呼ばれ、世界各地の仏教徒がそれぞれの地域の言葉で何百年も受け継いできた言葉の一つです。
人の身としてこの世に生を受けることは、あたりまえではない。とてつもなく有り難いこと。私がいまここに生存し得ていることの尊さに対する、感動と感謝の言葉です。さらに、2500年以上にわたって伝えられてきた仏さまの教えに、今この私が出遇っていることへの歓びとその教えに生きる決意の言葉です。

ご法話の後半には、絵本『いのちをいただく』の読み聞かせをさせていただきました。毎日の何気ない日暮らしは、多くのいのちの犠牲とそのいのちに関わってこられた方々の悲しみと、またそれによってお互いの生活が成り立っているという究極の葛藤の連続です。そのいのちと生活の実話が丁寧に描写されている絵本なのです。(今回は大人数でも見ていただきやすいように、紙芝居を持参しました)

入居者の皆さまはこれまでのご自身の生活体験をふり返りながら、じっくりと聞いて下さいました。私自身も日頃は忘れている(むしろ目を背けていた)いのちの事実に気づかせていただく、とても大切な仏縁となりました。

投稿者について

福間 玄猷

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん」 大阪府茨木市出身。平成8年三次市・源光寺へ入寺。《様々な経験を持った人々が集い、信頼できる温かなつながりを育む》そのような交流館を目指して、赤ちゃんからご年配の方まで世代を超えた活動を続けている。寺院や福祉施設はもちろん、各地の学校や保育所、コミュニティーセンター・いきいきサロンなどに招かれ、「いのち・こころ・真実を見つめる」ご法話や講演を重ねている。また、「子育て支援」「アドバンスケア・プランニング」「グリーフケア」を柱にした研修会も好評。子どもたちと富士山登山を3度完遂。グリーフケアアドバイザー1級/発達障害コミュニケーション初級指導者/つどい・さんあい 運営委員

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA