「早く元通りに!」でよいか  新型コロナ蔓延がきっかけで地球環境が改善 

2020年5月2日

この度の新型コロナ騒動は、私たち人間にとって、あらゆる分野にまたがるやっかいな事態を引き起こしている。しかし、「物事には両面」あって、私たち人間が経済活動を自粛せざるを得ない只今の状況が、地球環境にはよい影響を与えていると報道されている。世界各国の二酸化炭素の排出量が減り、大気汚染が軽減されている。インド北部では遠く200キロ離れたヒマラヤが数十年ぶりに見渡せるようになり、イタリアのヴェネツィアでは観光客の減少によって運河がきれいになった、などの報道がある。それは、同時に人間以外の動植物の生存にとって、大いに好転する機会になったとも言える。

 改めて、「人間という存在」について考えさせられるのだ。
新型コロナ騒動の甚大な影響を受けている私たちだから、「早く落ち着いてほしい」とか、「元通りになってほしい」と願うのは、正直なところだ。ただ、何の問いもなくコロナ以前に戻ることだけを目指すなら、再び環境破壊を進め、あらゆる動植物に犠牲を強いることになってしまう。その犠牲は必ず私たち人間にも影響を与える。それでは、次世代に対してどう申し開きをすることになるだろうか。せめて、コロナ沈静後の世の中をわずかでも環境負荷の少ない形に移行できないのだろうかと悶々としていた時、「ハッ」として、以前に購入し本棚の奥深くに収めていた本を探し出すことが出来た。それは、『仏教とエコロジー』と題した1冊。以下に、(少し長文ではあるが)その一部を紹介させていただき、新型コロナ沈静後の指針として提案したい。

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人間というものと自然、そこに生息する無数の生物たちのことを考える、その課程が大きく歪んでいたといえます。金儲けのために、科学技術を駆使したわけですが、その場合、人間以外の生物のことを、ちっとも考えなかった。たとえば、害虫とか益虫とかにばっちり分けて、都合の悪いものは殺せということだったが、害虫だけでなく、他の生物たちも殺してしまった。魚たちを殺したり、背骨を曲げてしまったり―この背曲がりは農薬中の有機リンのせいだといいますが―そういうことを、あまり心に痛みを感じることなくやってしまった。科学技術の使い方が根本的に間違っていたと言えましょう。

人間に都合の悪いものは殺してもいい、あるいは、人間のために犠牲にしていいんだというえ方が根底にある。それが、ヨーロッパに発達した自然科学の中に残って息づいている。
ただ、キリスト教の他の面の影響もあって、神の摂理だとか、神のおぼしめしだとかいう点で、ある程度、ブレーキもかかるようですが、日本では、残念ながら技術だけを輸入して、おまけに明治政府は、日本人の持っていた本来の宗教心を、徹底して歪めてしまったものですから、ブレーキを持たない科学技術になった。多くの生き物を殺し、人間までも殺し傷つけながら、心に痛みを感じない人間が技術を独占する状況をつくってしまった。
 経済(金儲け)優先ということをさきほど申しましたが、人間の欲望というのはまこしに始末の悪いものでして、あればあったでさらにもっと欲しくなる。二億円、三億円もの財産を持ちながら、「いやいやこんなことでは金持ちと言えん、まだ足らん、せめてこの倍なかったらいかん」なんて言う人が多い。こういう無限にふくらむ欲望のとりこになって目がくらんでしまう姿を、仏様は、「餓鬼」とおっしゃっている。限りなく欲望をふくらませてきた昭和三十年代以降の日本は、一億総餓鬼道というべきでしょう。

 一億総餓鬼道ができてしまって、その間で利益を奪いあう姿は、あきらかに修羅道でしょう。ウソをつくことも、人を陥れることも平気で、反省も懺悔もない、恥を恥とも思わない、そんな連中が政治をやっている―これは畜生道です。
 三悪道が揃っているのですから、そこに出現するのは 地獄しかない。そういう世の中を、われわれは、戦後四十年かかってつくってしまったわけです。そして、そんな社会を「文明社会」と思い違いしている。他を犠牲にして、ゼイタクザンマイをしているのが文明でしょうか。そういう厳しい反省が生まれてこないといけないのですが、お金や憎しみに目がくらんだ状態というのは、われわれにはなかなか自覚できない。そこは、どうしても仏智の不思議ですね、仏様の智慧の光明に照らされなかったならば、わかってこない。最近、しみじみとそう思います。

 では、仏教の生物観・自然観はどうか。「草木国土悉 皆成仏」というところから出発している自然観、これはあらゆる生物が、人間にとって都合の良いものも悪いものも、それぞれ自分の役割を持っているという。たとえば 今西錦司さんがおっしゃる、他の生物との共存、いわゆる「住みわけ理論」ですか(そこのところで進化論を少し訂正されているのですが)、あくまで生物界は食うたり食われたりの食物連鎖を形づくっているわけですが、そうしながら、各自がこの世界での自分の役割を精いっぱい果たしている姿、これがまともな自然の姿、健全なエコサイクルをつくり出している姿です。
 仏様が示しておられる、あらゆる生き物の命の尊さ―人間だけでなくて、虫けらの命も石ころの命も認め尊重してゆく―という考え方が、もっとしっかりわれわれの社会に根づいていれば、こういう餓鬼道化・修羅道化は防ぎ得たのではないかと、つくづく思い知らされます。
 どこまでいっても私どもは煩悩具足、貪欲や憎しみの固まりですが、だからこそそこに、仏様に照らされた智慧がもっと働かないと危なくてしかたがない。つまり、今のような経済と科学技術の暴走を見逃しているということは、私ども仏教徒の怠慢だと思います。本当に仏様の願いを受けて、浄土への道を歩ませていただくのなら、その過程で、自分のまわりに餓鬼道や畜生道をつくらない、つくらざるを得ない場合も、それを最小限に押さえて、それ以上、他の生き物に迷惑をかけないという思いがあってしかるべきではないかと思います。

■ご紹介:青木敬介
1932~2019 兵庫県御津町生まれ 龍谷大学卒業 浄土真宗西念寺前住職 環瀬戸内海会議顧問 昭和47年海の浄化をめざして「播磨灘を守る会」を結成し、工場排水の監視、埋め立ての停止などの運動をすすめる。63年磯浜復元全国ネットの結成に参加した。
『仏教とエコロジー』青木敬介/著 同朋舎出版/発行 1992年

投稿者について

福間 玄猷

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん」 大阪府茨木市出身。平成8年三次市・源光寺へ入寺。《様々な経験を持った人々が集い、信頼できる温かなつながりを育む》そのような交流館を目指して、赤ちゃんからご年配の方まで世代を超えた活動を続けている。寺院や福祉施設はもちろん、各地の学校や保育所、コミュニティーセンター・いきいきサロンなどに招かれ、「いのち・こころ・真実を見つめる」ご法話や講演を重ねている。また、「子育て支援」「アドバンスケア・プランニング」「グリーフケア」を柱にした研修会も好評。子どもたちと富士山登山を3度完遂。グリーフケアアドバイザー1級/発達障害コミュニケーション初級指導者/つどい・さんあい 運営委員

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